2014年05月06日

井深八重

井深八重

昨年NHK大河ドラマで八重の桜というのが放送された。
主人公は会津藩の女性で、1845年会津藩の砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の子として誕生した。
明治維新戦争では銃を持って維新軍と戦った女性である。
明治に入って新島襄と出会い、結婚して同志社大学の設立と運営に尽力した新島八重である。

一方 井深八重(いぶか やえ、1897年10月23日 - 1989年5月15日)は日本の看護婦。台北生まれ。父は衆議院議員をつとめた井深彦三郎。なお父親井深彦三郎は会津藩出身である。

井深八重は、1918年、同志社女学校(現在の同志社女子大学)専門学部英文科卒業。長崎県立長崎高等女学校の英語教師となった。

翌年の1919(大正8)年、体調に異変が生じ、ハンセン病と疑われ、神山復生病院(私立カトリックハンセン病院)へ隔離入院することとなった。入院後は、井深家から籍を抜かれ本名を隠し「堀清子」を名乗った。井深八重22歳の夏の出来事。八重は一瞬にして暗黒の奈落に突き落とされたような衝撃を感じ、将来の夢も結婚もすべてを失った絶望から何度も自殺を考えたという。

八重が入院した神山復生病院は、レゼー神父(フランス人)を病院長とするハンセン病専門の病院であった。しかし、医者はレゼー神父以外にはおらず、看護婦も皆無で、比較的軽い患者が重い患者の世話をしている有様だった。

井深八重も重度の人達のお世話に従事した。ところが入院から一年が経った頃、彼女の症状は悪化しないばかりか、きれいな肌にさえなって来た。そのような事から、レゼー神父の勧めもあり親戚が開いている病院で診察を受けたところ、なんと彼女の病気はハンセン病ではなく、一時的な皮膚病だった事が分かった。つまりハンセン病との診断は誤診だった。

レゼー神父は「あなたが、ハンセン病でないということがわかった以上、あなたを此処におく理由がなくなりました。どうぞ今後の事は良く考えて、自分の人生を生きて行って下さい。」と彼女に告げた。「もし日本が嫌ならばフランスへ行ってはどうか。私の家族があなたを迎えてくれるでしょう」とまで言って下さった。それはこの時代はまだハンセン病に対する強い差別があり、そこで働く人にまで差別があったからだ。しかし井深八重からは予想も出来ない返事が返ってきた。

それは「私は看護師の勉強をして資格をとり、この病院の看護師になります」というものであった。

彼女はハンセン病患者を献身的に看護する院長ドルワール・ド・レゼー神父の姿に感銘を受け病院に留まることを決意する。1923年、看護婦学校で学び資格を所得し病院初の看護婦となる。当時はハンセン病やその患者に対する激しい差別と偏見が存在した時代であったにも関わらず、極貧の状態だった神山復生病院の婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた。

やがて救ライ事業に生涯を捧げた八重の労苦が世に認められるようになり数々の賞を受賞した。1959年復生病院創立70周年にローマ法王ヨハネ23世から表彰され、日本では黄綬褒章が授与された。さらに1961年には国際赤十字から看護婦の最高名誉ナイチンゲール記章を受章した。

しかし、彼女が受けたもっとも価値ある賞は、患者たちから「母にもまさる母」と慕われたことであり、また天国で受ける神様からのご褒美であった事でしょう。

自分がハンセン病との誤診を受けたことについて、彼女はこのように語っていたという。

「自分がここにいることは恵みです。神様からこの場を与えられたことを感謝しています。」

井深八重が座右の銘としていた聖書の言葉は「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」(ヨハネ12章24節)。彼女は1989年(平成元年)に天に召された。91歳の生涯であった。彼女の墓には「一粒の麦」と刻まれている。

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posted by SR400 at 16:37| Comment(0) | 心に残る聖なる人々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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