2015年07月04日

マキシミリアノ・コルベ神父 2015年7月4日

マキシミリアノ・コルベ神父 2015年7月4日


私は聖母に私はどうなるのかと尋ねました。そのとき、聖母が白と赤の2つの冠を持ってやって来ました。そして、どちらの冠を喜んで受け入れるかお聞きになりました。白は純潔を保ち、赤は殉教者となることを意味していました。私は両方ほしいと言いました。


【概略】
幼少時代ローマで彼は哲学、神学、数学および物理学を学んだ。1915年にグレゴリアン大学で哲学の博士号を、そして1919年には神学の博士号を聖ボナベントゥラ大学で取得した。

マキシミリアノ・マリア・コルベ神父は、1894年1月8日に当時ロシア帝国の衛星国であったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで、織物職人であるユリオ・コルベとマリア・ドンブロフスカの5人兄弟の次男として生まれた。

「フランシスコ会入会」

1907年に、兄のフランシスコと共にコンベンツァル聖フランシスコ修道会への入会を決め、ルヴォフ(現在はウクライナ領のリヴィヴ)にあるコンベンツァル聖フランシスコ修道会の小神学校に入学した。
1910年、彼は修練院に入ることを許され、マキシミリアンの名前を与えられた。1912年、彼はクラクフに送られ、そしてローマへの留学生に選ばれた。

「ローマ」

ローマで彼は哲学、神学、数学および物理学を学んだ。1915年にグレゴリアン大学で哲学の博士号を、そして1919年には神学の博士号を聖ボナベントゥラ大学で取得した。

1917年10月16日に、6人の志願者と共に神学校聖堂の汚れなき聖母の祭壇の前で聖母へ奉献を行い、「汚れなき聖母の騎士会」を創立した。

その後、出版による布教活動を志したコルベは1922年に初めて『無原罪の聖母の騎士』(Rycerz Niepokalanej)を執筆し出版した。この頃には、コルベと共に後に日本に宣教に来ることになるゼノ・ゼブロフスキー修道士と出会っている。

1927年にはニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)を創立し、『無原罪の聖母の騎士』等の出版による宣教に力を入れた。

「東洋での宣教」

1930年4月24日にゼノ修道士ら4人と日本の長崎に到着すると、早坂司教に『無原罪の聖母の騎士』の出版許可を願った。長崎で早くも翌月に日本語版の『無原罪の聖母の騎士』の出版を開始した。翌年には聖母の騎士修道院を設立した。http://www.seibonokishi-sha.or.jp/

1933年4月にポーランドでの管区会議に出席するために日本を離れた。そして再び日本に戻った後、1936年にニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために故国ポーランドに帰国した。

「ポーランド帰国後」

帰国後はニエポカラノフ修道院の院長を務め、出版やラジオなどを通じて活発な布教活動を行った。コルベはこのころには既に将来の戦争と自分の運命を悟っていた。1937年1月10日、修道士に日本で聖母マリアから「確実に天国に行ける」という約束を受けたということを打ち明けている。

1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻による第二次世界大戦の勃発により、活動の縮小や停止を余儀なくされた。イエポカラノフ修道院も病院として接収され、多くの修道者が修道院を去った。

「逮捕」

1941年2月17日にゲシュタポにより、コルベは4人の神父と共に逮捕された。その理由としては、コルベ神父が発行していた『無原罪の聖母の騎士』や日刊紙がナチスに対して批判的なものであったからとも、当時のナチスはユダヤ人のみではなく、ポーランドにおける有力な人物をも逮捕の対象にしていたからともされる。

この後、20人の修道士が彼の身代わりになることを申し出ているが、この申し出は却下されている[31]。
コルベはパヴィアックの収容所に収容された後に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られた。囚人番号は16670であった。

「身代わりの死」

1941年7月末、収容所から脱走者が出たことで、囚人たちの中から無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可した。コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。

餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベは全く毅然としており、他の囚人を励ましていた。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツ(Bruno Borgowiec)は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、当局は病院付の元犯罪者であるボスを呼び寄せてフェノールを注射して殺害した。

ボルゴヴィツはこのときのことを以下のように証言している。

マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べました。私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。監視兵とボフが出て行くと、もう一度地下に降りました。マキシミリアノ神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていました。その顔は穏やかで、美しく輝いていました。

「列聖」

1971年10月10日にパウロ6世によって列福され、1982年10月10日に同国出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。列福式および列聖式の場には、コルベに命を助けられたガイオニチェクの姿もあった。ガイオニチェクは奇跡的に終戦まで生き延びて解放され、94歳の天寿を全うするまで、コルベに関する講演を世界各地で続けていた。1998年にはロンドンのウェストミンスター教会の扉に「20世紀の殉教者」の一人としてコルベの像が飾られた。サンマリノでは“鉄条網を背後に収容者服姿”の図案の記念切手が発行された。


引用文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%99

参考文献
http://www.geocities.jp/rekiroken/risa-t/st_kolbe.htm

http://kolbe-museum.com/?mode=f2

https://sites.google.com/site/tomaozaki/Home/03-korube

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9575/kolbe.html

http://shuchi.php.co.jp/article/1833

http://4travel.jp/travelogue/10548949

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%B9


コルベ神父様.jpg

コルベ神父様2.jpg

コルベ神父様3.jpg

囚人として描かれたコルベ神父のステンドグラス.jpg

コルベ神父様4左はし.jpg
左端像

アウシュビッツの聖者コルベ神父.jpg


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posted by SR400 at 14:15| Comment(2) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コルベ神父のお話は以前にSRさんのブログで紹介された時に
初めて知りました。
胸が苦しくなるお話です。

731部隊もアウシュビッツも戦争の産物です。
何故戦争をするんでしょうかねぇ。
日本もまた危ない方向に行かなきゃいいんですが・・。
Posted by yuki at 2015年07月04日 22:53
犠牲、献身は、キリスト教では崇高な行為として見なされます。

身代わりで助かった人が、生き抜いて天寿を全うしたというのも救われますね。

規模の大小はありますが、戦争は有史以来絶えることなく、現在も地球のあちこちで止みません。被害者は常に弱い人々です。

安保法案、強行採決するんでしょうかね?
Posted by SR at 2015年07月05日 09:38
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