2014年06月02日

心に残る聖なる人 目次

心に残る聖なる人

北原怜子さん 2014年4月26日
http://parvicelllungcancer.seesaa.net/article/395625959.html

ゼノ修道士と北原怜子さん 2014年4月27日
http://parvicelllungcancer.seesaa.net/article/395691385.html

コルベ神父
http://parvicelllungcancer.seesaa.net/article/395842124.html

井深八重
http://parvicelllungcancer.seesaa.net/article/396392554.html

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小細胞肺がん 進展型 肺がん患者 余命日記
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2014年05月06日

井深八重

井深八重

昨年NHK大河ドラマで八重の桜というのが放送された。
主人公は会津藩の女性で、1845年会津藩の砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の子として誕生した。
明治維新戦争では銃を持って維新軍と戦った女性である。
明治に入って新島襄と出会い、結婚して同志社大学の設立と運営に尽力した新島八重である。

一方 井深八重(いぶか やえ、1897年10月23日 - 1989年5月15日)は日本の看護婦。台北生まれ。父は衆議院議員をつとめた井深彦三郎。なお父親井深彦三郎は会津藩出身である。

井深八重は、1918年、同志社女学校(現在の同志社女子大学)専門学部英文科卒業。長崎県立長崎高等女学校の英語教師となった。

翌年の1919(大正8)年、体調に異変が生じ、ハンセン病と疑われ、神山復生病院(私立カトリックハンセン病院)へ隔離入院することとなった。入院後は、井深家から籍を抜かれ本名を隠し「堀清子」を名乗った。井深八重22歳の夏の出来事。八重は一瞬にして暗黒の奈落に突き落とされたような衝撃を感じ、将来の夢も結婚もすべてを失った絶望から何度も自殺を考えたという。

八重が入院した神山復生病院は、レゼー神父(フランス人)を病院長とするハンセン病専門の病院であった。しかし、医者はレゼー神父以外にはおらず、看護婦も皆無で、比較的軽い患者が重い患者の世話をしている有様だった。

井深八重も重度の人達のお世話に従事した。ところが入院から一年が経った頃、彼女の症状は悪化しないばかりか、きれいな肌にさえなって来た。そのような事から、レゼー神父の勧めもあり親戚が開いている病院で診察を受けたところ、なんと彼女の病気はハンセン病ではなく、一時的な皮膚病だった事が分かった。つまりハンセン病との診断は誤診だった。

レゼー神父は「あなたが、ハンセン病でないということがわかった以上、あなたを此処におく理由がなくなりました。どうぞ今後の事は良く考えて、自分の人生を生きて行って下さい。」と彼女に告げた。「もし日本が嫌ならばフランスへ行ってはどうか。私の家族があなたを迎えてくれるでしょう」とまで言って下さった。それはこの時代はまだハンセン病に対する強い差別があり、そこで働く人にまで差別があったからだ。しかし井深八重からは予想も出来ない返事が返ってきた。

それは「私は看護師の勉強をして資格をとり、この病院の看護師になります」というものであった。

彼女はハンセン病患者を献身的に看護する院長ドルワール・ド・レゼー神父の姿に感銘を受け病院に留まることを決意する。1923年、看護婦学校で学び資格を所得し病院初の看護婦となる。当時はハンセン病やその患者に対する激しい差別と偏見が存在した時代であったにも関わらず、極貧の状態だった神山復生病院の婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた。

やがて救ライ事業に生涯を捧げた八重の労苦が世に認められるようになり数々の賞を受賞した。1959年復生病院創立70周年にローマ法王ヨハネ23世から表彰され、日本では黄綬褒章が授与された。さらに1961年には国際赤十字から看護婦の最高名誉ナイチンゲール記章を受章した。

しかし、彼女が受けたもっとも価値ある賞は、患者たちから「母にもまさる母」と慕われたことであり、また天国で受ける神様からのご褒美であった事でしょう。

自分がハンセン病との誤診を受けたことについて、彼女はこのように語っていたという。

「自分がここにいることは恵みです。神様からこの場を与えられたことを感謝しています。」

井深八重が座右の銘としていた聖書の言葉は「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」(ヨハネ12章24節)。彼女は1989年(平成元年)に天に召された。91歳の生涯であった。彼女の墓には「一粒の麦」と刻まれている。

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2014年04月29日

コルベ神父

マキシミリアノ・マリア・コルベ神父
(1894年1月8日 - 1941年8月14日)

先出のゼノ修道士とともに1930年に来日した。
同年「聖母の騎士出版社」、翌年には早くも「聖母の騎士修道院」を設立している。日本におけるカトリック布教活動を精力的に行っていたが、1936年に母国ポーランドのニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために帰国した。帰国後は祖国ポーランドでも精力的に布教を行っていたが、1939年にドイツ帝国がポーランド侵攻(第二次世界大戦の始まり)してきたため、修道院も没収されてしまう。
ドイツ軍はコルベ神父を利用しようとしたが、コルベ神父は断固として拒否した。そのためドイツ軍の恨みを買い、アウシュビッツ収容所に入れられてしまった。囚人番号16670。それが、コルベ神父につけられた番号だった。

1941年7月アウシュビッツ収容所から脱走者が一人出た。
脱走者はつかまらなかった。
その場合その班の責任となり、10名の収容者が死刑となる。
死刑の方法は餓死刑だ。
無作為に10名が選ばれたとき、その内の一人が
突然妻子を思って泣き崩れた。
「私には妻も子供もいる!死ぬのは嫌だ!・・」
囚人番号5659、ポーランド軍軍曹のフランシスコ・ガヨヴィニチェク。

この時、コルベ神父は囚人番号5659の身代わりを申し出た。

コルベ神父は他の9人と共に<死の地下室>と呼ばれる餓死監房に連れて行かれた。
のちに、このときの目撃者で収容所から生還した人々は、この自己犠牲に深い感動と尊敬の念を引き起こされたと語った。餓死監房は生きて出ることのできない場所だった。パンも水もなく、飢えは渇きよりも苦しく、多くが狂死する。
そこからは絶えず叫びやうめき声が響いた。ところが、コルベ神父が監房に入れられたときは、中からロザリオの祈りや賛美歌が聞こえてきた。
他の部屋の囚人も一緒に祈り歌った。彼は、苦しみの中で人々を励まし、仲間の臨終を見送った。そして<死の地下室>を聖堂に変えた。

2週間後には、彼を含めて4人が残った。
当局は死を早める注射を打つことにした。彼は注射のとき、自ら腕を差し出したという。このとき立ち会ったブルノ・ボルゴビエツ氏は、いたたまれず外に飛び出してしまった。
彼は囚人だがドイツ語ができたので通訳をさせられており、後日、コルベ神父の最期について貴重な証言をした。
8月14日、聖母被昇天祭の前日、コルベ神父は永遠の眠りについた。

47歳だった。

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2014年04月27日

ゼノ修道士と北原怜子さん 2014年4月27日

ゼノ修道士と北原怜子さん

北原怜子さんのことを紹介したので、ゼノ修道士のことにも少し触れる。

ゼノ修道士はポーランド出身で1930年コルベ神父らとともに日本の長崎県に布教のために来日した。以降ゼノ修道士は日本を離れることなく生涯を日本で過ごすことになる。

彼らは長崎で「無原罪の聖母の騎士」という布教誌を発行し布教活動に専念した。やがて戦争が始まり、コルベ神父は所用で一時祖国ポーランドに帰国。ゼノさんはそのまま長崎に残り、原爆で被災する。

その後ゼノさんは、戦後の被災孤児や貧しい人のために全国的に支援活動を精力的に行った。

東京では東京赤羽に教会と修道院を建てるために奔走したり、当時浅草にあった戦災孤児・戦災難民のための廃品回収業の集落「蟻の町」のために奉仕し続けた。

そのときたまたま北原怜子さんの家にゼノさんが布教活動に行ったのが二人のであった最初だった。

もともと北原怜子さんはキリスト系学校を卒業して洗礼も受けており、ゼノさんの活動や「蟻の町」の実態に衝撃を受け、蟻の町に身を投じ、子供達の世話や教育、くず拾い、教会の設立などに奔走した。彼女はもともと結核で身体が弱く、無理がたたったのか、最後は本人の希望で「蟻の町」で帰天した。(享年27歳)

彼女の死後もゼノさんは積極的に活動を続け、戦後復興の後も弱い人のために様々な支援活動を精力的に続けた。
ちなみに彼の口癖は「ゼノシニヒマナイネ」だった。

1981年2月来日した教皇・ヨハネ・パウロ2世は、ゼノ修道士の入院先を訪問し、長年の活動に敬意を表した(このとき自らもポーランド出身である教皇は、ゼノさんにポーランド語で話しかけている)。1982年4月24日、永眠。享年91歳。

なおゼノさんのことに触れたら、コルベ神父のことも少し触れなければならないのだけど、いささか気が重いので少し時間をちょうだいしたい。


カトリック潮見教会
http://www17.ocn.ne.jp/~shiomicc/frame_j.html

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2014年04月26日

北原怜子さん 2014年4月26日

今日は日中暖かい陽気。
奥さんの運転でホームセンターブリコ介良店へ。買い物は杖。
足がふらつくので杖を購入。
帰宅して早速近所を歩いてみた。ヨロヨロしてなんともかんとも。かなりの高齢者みたいだ。
昨年の今頃は空手に熱中して、鍛錬のため近所の山を走っていたんだけど、全く信じられない。


北原怜子さんのこと

アリの町のマリア―愛の使者 北原怜子
やなぎや けいこ (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/488626333X/qid=1140948539/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-1860724-3362323

彼女の経歴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E6%80%9C%E5%AD%90

私の生まれる前のお話です。

随分昔のような、そうでもないような・・・。

なんでこの人知ってるかというと、小さい頃ちばてつや氏の漫画で読んだことがあったのです。

もう殆どの人が知らないでしょうね。戦後まもなく・・・こんな時代もあったのです。

↓彼女と子供たちと教会の写真です。

Mria_in_arinomachi.JPG

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